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【かみさまは小学5年生】のすみれちゃんとアナスタシアが違いすぎる話

アナスタシア

正月から「神様」という沼にはまっている次第であります。

正月らしいと言えばらしいですね、スーです。

本日もお越しいただきありがとうございます。

神様は自分のことを神様だとは言わないだろうという自分の解釈から、「わたしは神様です」なんていう人のことを「ププ」って思ってしまいます。

みなさんは心に神を持っていますか?

わたしは「チバユウスケ」という人と「アナスタシア」という存在、この圧倒的な似姿の2人を心に携えているおかげでなんだか楽しい毎日です。

すみれちゃんの言葉、残念ながらあまり響きませんでしたが、彼女がわざとデタラメを言っているとも思いません。

でも、自分が日本で一番の神様と言ってしまった、そのことがどれだけ大きなことなのかを自覚した時にも同じことを言い続けられるのでしょうか。

真実かどうかを他人が見極めるのは不可能に近いです。

それを踏まえて、わたしが真理だと思っている「アナスタシア」と、「かみさまは小学5年生」を照らし合わせてみたいと思います。

どちらも明確に「神様」について語られているのでね。

【かみさまは小学5年生】という本を読んで共感するのか嫌悪感を抱くのか
ー本記事は2019年1月8日に公開済みですー お正月に実家に帰ったとき、1冊の本と出会いました。 それが「かみさまは小学5年生」です。 ご存知ですか? 私は全く知らなかったです、スー(@bacteria_suzu)です。 本日もお越しいただ...
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アナスタシアは神じゃないけどすみれちゃんは神様というねじれ

アナスタシアはもちろん神様ではありません。

特別な能力を持ち人間離れしたように見えるけれど、ただの1人の女性であるという事を自ら何度となく主張します。

自分だけが特別ではないと。

神様は決して私たちにその姿を見せることはないと。

私たちの内に神の存在があり、全ての人がいつでも神と対話できると。

そこへきて、「わたしが◯番目の神様です」と声高に言えてしまうというのは、やはりちょっと滑稽ではありませんか?

神様に階級?

創造主、父なる存在は、ただ1人ではなかったですか?

すみれちゃんの言うように神様が階級制で、ピラミッド型社会ってあり得ることなのでしょうか?

さらに、神はその姿を人間に見せることは不可能であるはずなんですが、すみれちゃんは、

「かみさまは金色の服を着て、黒いハカマをはいている。黒くて首まである長い髭で、髪の毛は1本残らず帽子の中にしまっている。杖とか太鼓を持っている」

こんな神様を見たそうです。

妙に具体的で自信を持って発言しているところが、簡単にデタラメを喋っていると言い切れないところですが、それにしてもこれはあんまりではないでしょうか?

私たちの先祖たちはいろんな創造主のイメージを具現化してきました。

そうすることで人々を集め、神がいかにもにいるように意識を向け崇めさせ、ときには利益をも算出しているのです。

それが創造主の「夢」では決してないはずですよね。

神様はお酒が好き?

アナスタシアとすみれちゃんの決定的な違いはたっくさんあるのですが、明確に真逆のことを言っているのは、「お酒」についてです。

アナスタシアは、お酒のことを

「人を酔わせる毒」

とはっきりと言っています。

一方すみれちゃんは、

「ほとんどの神様がお酒が好き、大大大好きだ」

と愉快に語っていますよ。

まぁ、チバユウスケ氏も「いつも片手にビール」と言うスタイルなんで、私からはなんとも言えないところですが…。

酔いたいことがあるときは飲んでもいいかもしれませんが、神様がお酒を飲んだりラーメンチョコを食すと言うのは、ちょっともう想像力が追いついてない感じがしてしまいます。

神様は試練を与える?

愛する子供達に試練という困難を自ら与えたい親がいるでしょうか?

神はすべての人を愛し、自由を与え、創造することだけを強く願っているのです。そして人間たちが最高の共同の創造をなし得たときに初めて、神とのエネルギーの交流、もしくはともに創造することが可能になるかもしれないのです。

私の主観ですけれど、神のその思いは全く変わらず常に私たちに愛を向けられていると思うのです。

聞こえは宗教みたいですけれど、そういう愛を私がただ単に自分勝手に感じて生きているので、なんのしがらみもありません。まさにフリースタイルの愛なんです。

宗教やスピリチュアルはある意味でのしがらみですよね。シバリがあるやや不自由な思想ですよね。

しかし人が集えばその代表者に様々な質問が投げられます。

「人はなんのために生きているのですか?」

「流産や不妊はなぜ起こるのですか?」

「戦争はいけないことですか?」

「犯罪はなくならないのですか?」

自分の理想郷にならない現実への不満を他者へとぶつけてもしょうがないですが、答えを出してくれそうな存在がそこにあるから、いろいろ聞いてしまうのでしょうか。

聞かれたときに、えーっと、それはわかりません…、とは言えないんです。

だから、自分の想像の中で、もしくはいろんな知識や情報を自分の中で組み直してそれらしい答えを出そうとします。

その結果、

「人は修行するために自ら選んで地上に降りてくる」

「乗り越えらる人にしか試練は与えられない」

「悲しいことや辛いことも経験として必要だから起こる」

「笑顔でいればきっといいことが起こる」

などの耳に心地いい教えが人の心の隙間にうまく入り込んでいくのです。

とてもシンプルで単純なことをこねくりまわして複雑にしているように思えませんか?

神の愛は無条件で惜しみないものです。試練?そんな発想すら皆無ではないでしょうか。

わかりやすい言葉・読みやすい本

すみれちゃんの語る神様についての話や、宇宙の様子などは小学生が興味を持ちそうな話ですね。

いい意味で、誰もが理解しやすい言葉で面白おかしく説明しています。

逆に、に寄り添った現代的すぎる表現が、スピリチュアル界隈を長年かけて軽やかにほぼ1周し、さらについに本当の真理にたどり着いたかもしれない人たちの反感を買うということはあるかもしれません。

「かみさまは小学5年生」と「アナスタシア」シリーズ本が書店に並んでいたとします。

どっちかを選べと言われたら、おそらくほとんどの人が「かみさまは小学5年生」を選ぶのではないでしょうか。

だって、読みやすそうな本だから。

サクサクと短時間で読めるから。

「アナスタシア」は全10巻すべて読むのに何日かかるかわかりません。

現代ってそういう世界なんでしょうね。

今の苦しみや疲れを瞬時に解決してくれる言葉が欲しいのです。

それで救われる命があるならいいですが、救われた後はどうしましょ?そこから一転して明るい人生が待っているとは思えません。

だって根本が変わっていないから。

本当に自分が愛されていると、自分の意識が感じることができるまではきっと同じ苦悩が繰り返されるだけではないでしょうか。

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今どういう生活をしているの?

今の世の中にあふれる精神世界の様々なコミュニティーや組織、教典などは、一昔前に比べると割と自由に選べるようになりました。

仏教やキリスト教などを、各家で一つこれと決めてそれに従って代々受け継がれていくというシステム。

これの要不要は別として、あなたはあなた、自分は自分、その心の内にある「神」に気づいた人というのはとっても軽やかに生きていけると思うのです。

今、あなたはどういう思いで毎日を生きているでしょうか。

布教活動に専念しちゃったらアウト

多くの人に思いを伝えたい、そういう気持ちは理解できます。自分もこうして自分の考えを好き勝手にですが述べているし、それを公共の媒体で晒していますから。

でも、自分の生活を乱すほどにその活動に専念してしまうと、それはアウトではないでしょうか。

なんなら、自分が神様であったり、アナスタシアのようにあらゆる存在と光線を使って交信できるのであれば、一生懸命に講演会を開催したり本を書いたりメディアに登場しなくても、多くの人の心に真理を届けることが出来るのと思うのです。

ただし、アナスタシア本を書いたウラジーミル・メグレ氏のように、その役割を担ってしまった人というのはいるかもしれません。その場合はその人はあくまで広報役として活動し、アナスタシア本人は出てこないのです。

それくらい顔出しするということには大きなリスクが伴うのです。

姿形は一切見ることができなくても、そこに込めた意識が真に純粋な意図であれば、絶対に伝わるのです。

植物の力を無視していたらアウト

人間は、植物の存在なしでは存在し得ないと思います。

毎日毎日どこかで講演したりブログを書いたりしている人より、朝から晩まで植物と話し、慈しみ、それに触れ、愛を注いでいる人の方がずっと本質に近い生活をしているのではないでしょうか。

あーだこーだ言ってる暇があれば、植物を愛でたらいいんです。

そこをすっ飛ばしてはいませんか、すみれちゃん?

それが地球を救う一番の近道なんです。

神の息吹を感じ、神と対話し、一緒に何かを感じる生活、それが私の理想でもあります。

私もアウトに限りなく近い生活をしています。

そんな人に易々と書評を書かれるのですから、やはり公共の場で自分を晒すということはリスクを伴うのです。

他人の評価を欲しがったらアウト

もしあなたの生活に「他人の評価」というものが全くなかったとしたら、どういう気分になりますか?

評価じゃなくて「他人の目」でもいいです。

それを気にしなくてもいい生活、いかがですか?

不安になるか、気が楽になるか。

他人の目があるからこそ人は自制心が働き、悪い道へいかないように生きられるという意見もあるかもしれません。

他人に認められることによって生きる意味を見出し、喜びも得られるという意見もあるかもしれません。

しかし、自分で自分を認めることができないままでは、誰に何を評価されても幸せにはなれないのです。

なんかスピリチュアルっぽい言い方ですが、なんというか、矛盾していてもにまみれていてもいいから、自分中心の世界というものが大切な気がします。

自分の内にきっと真理はあるのだから、「真理はこういうものだよ」と必死に伝えるのではなく「真理はあなたの内にある、神の愛はあなたの内にある」その一言でいいのではないかと思うのです。

他人にいくら「いいね」をもらっても、それに気付けていなければ心からの満足や幸せは得られないのではないでしょうか。

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まとめ

アナスタシアとすみれちゃん、同じような事を言っていることもあります。

それを見ると多少複雑な気持ちにはなります。

しかしやはり、この2人の間の格差はかなり大きいと言えるのではないかなというのが私の本音です。

すみれちゃんだけじゃなく、スピリチュアルの世界に氾濫するいろんな思惑が多くの人を虜にしているのは紛れもない現実です。

スピリチュアルははっきり言ってビジネスだと思います。

きれいごとで塗り固めて人を巻き込んでいるのです。それならば最初から「これはお金儲けを目的でやっていますよ、ビジネスですよ」と言えばいいのにね。

「私の生活がかかっていますよ」って。

アナスタシアはその必要がないから、意図が純粋であり続けられるのかもしれませんね。

なんか毒づいて終わる感じになりましたが、結局神様もお金儲けしてるんかいっとイラっとしてしまったので…。

みなさん、自分の内に全てがあるという事を一度しっかりと受け止めてみませんか?

本日も最後までお読みいただきありがとうございます。

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