自分の何気ない人生の中の、気にも留めなかった1シーンが、どんどん違う景色として蘇ってくる体験とは、とても興味深いですね。
アナスタシアと出会い、いろんな真理を聞かされていたメグレ氏ですが、まさか自分の過去のささやかな思い出のことについてまで、自分より詳しく話されるとは思ってもみなかったでしょうね…。
メグレ氏が若い頃に通っていた修道院、そこで友情を結んだフェオドリ神父。
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そういう歴史があった人だからこそ、アナスタシアと出会い、宇宙の本質を知る旅に急遽舵を取り直したのかもしれません。
そういえば私も教会の日曜礼拝に行っていたなぁ。あそこに聖なるものはあったのかなかったのか、当時は全く興味がありませんでした、スーです。
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メグレ氏のなかにあり、フェオドリ神父のお眼鏡にかなった素質とは一体何だったのでしょうね。
そして、何の教義も教えず、その他の押し付けがましい教義からメグレ氏を防御したフェオドリ神父は、現代を生きる彼に会ってくれるのでしょうか?
フェオドリ神父との再会
過去に深い信頼関係を築き、非常に懇意にしていた人と疎遠になっていたとして、その人物が、今の自分の人生において重大なヒントを持っていると確信するような出来事があった場合、それは100%会いたくなりますよね。
メグレ氏もアナスタシアからフェオドリ神父のことを思い出させられた時、とにかく会いに行きたいと強く思います。
現在の神父は現在のメグレ氏を受け入れてくれるのだろうか?
これだけ音信不通で、手紙の1通もよこさなかったメグレ氏を、果たしてフェオドリ神父は受け入れてくれるのでしょうか?
お世話になった人との久しぶりの再会というのは、期待もありますが同時に大きな不安も伴いますよね。
「アナスタシア、きみはどう思う? 私の霊性の父であるフェオドリ神父は、もし私が会いに行ったら、受け入れてくれると思う? 話してくれるかな? 困惑しないかな?」
めっちゃ不安になってますね。
もちろん全てを受け入れ全てを許し、どんなに失礼なことをしても見過ごしてくれた偉大なるロシアの父は、そこに会いにきたメグレ氏を邪険にすることはないでしょう。
ただ、26年という月日が2人にどういう感情を芽生えさせるか、それはきっとアナスタシアにも未知なのではないでしょうか。
アナスタシアはメグレ氏にこう助言します。
「もちろん、彼は受け入れてくれる。来てくれたことを本当に喜ぶわ。あなたがどんなふうであれ、彼はあなたを受け入れる。ただ、もし、あなたが自分のうちにもともとある情報を用いて少なくとも何かをつかみ、何かを為したら、彼はもっと大きな喜びを感じるはずよ」
ただ丸腰で会いに行くのではなく、当時神父が自分に託したかった思い、そして神父ですら具体的にではなく直感的につかんでいた「何か」について、少しでも理解しようと努めることは再会の礼儀かもしれませんね。
神父は今どこに?
アナスタシアは26年も前の出来事を再現したわけですが、いまも全く同じところに神父がいるとは限りませんよね。
メグレ氏だってここまで変化を遂げているわけですから。
では、そのへんのところをアナスタシアに手伝ってもらいましょう。
「あなたの父、この偉大なロシアの長老は、今は、トロイツェ・セルギー大修道院からさほど遠くない森の中の小さな僧院にすんでいる」
答えが簡単に出ましたね。
この僧院とは、
- 戒律は修道院より厳しい
- 庵室を備えたいくつかの小さな建物と木造の教会がひとつある
- 教会には彩色は施されていない
- ドームのめっきがはがれているけど、とても美しく心地よく清潔である
- たいていの教会のようにろうそくを売ったり買ったりしない
- 何ひとつ売り買いされない
- 教区民はこの僧院には入れない
このような質素で厳しいものであり、フェオドリ神父はここの僧院長をしているという、そんなことまでわかるのです。
いいなぁ。
神父は今もお祈りを捧げている
神父は何も変わっていなかったのです。
20年以上もずっと、ただただ、
すべての人々の魂のために、
メグレ氏の魂の救いのために、
親を忘れてしまっている子どものために、
子どもたちに忘れられてしまっている親たちのために、
今、この瞬間にお祈りを捧げているというのです。
それは私たちのことも含め、すべての魂を救いたいという思いによって行われている、とても神聖な祈りであるだろうと想像できますね。
そして、アナスタシアは、フェオドリ神父に会いに行くメグレ氏にこう託すのです。
「彼のところに行っておじぎをしなさい。彼に許しを乞いなさい。彼の霊性はとても偉大。私のためにもフェオドリ神父におじぎをして」
再会の始まりはまずは礼儀ですね。
さて、一体どんな再会になるのでしょう・・・。
この神父は本当にフェオドリ神父なのか?
26年という月日は、フェオドリ神父の信念を変えはしなかったようですが、修道院を取り巻く環境やそこで奉仕を行う人々には多少変化があるようでした。
27年前と同じようにトロイツェ・セルギー大修道院の門をくぐり、修道院の入り口にまっすぐ向かったメグレ氏。
以前は、自分の名を名乗りさえすれば、簡単にフェオドリ神父にとりついでもらえたけれど、今回はそう簡単にはいきませんでした。
森の中に住んでいるフェオドリ神父に会いにくる教区民はいないと言われます。
当番の修道士に、フェオドリ神父がかつて見せてくれた、大修道院の聖なる品々の名前を言うことで、ようやく彼を納得させることができたようです。
そして二人は再会した
フェオドリ神父とメグレ氏は教会の木造りのポーチで会いました。
「フェオドリ神父に会ったら、うろたえず、驚いたりしないように」
とアナスタシアに言われていましたが、メグレ氏は次第に混乱してきて、うろたえてしまうのです。
フェオドリ神父は年老いて白髪だったけれど、27年前よりも年をとったようには見えなかったし、二人が別れたのも、27年前ではなくついきのうのことのようだったと感じるのです。
二人はしばらく黙ったままでした。
メグレ氏は何か言おうとしたけれど、神父はすべてを知っていると思えば、口にする必要のある言葉を見つけ出せなかったのです。
アナスタシアについての本を渡したい
アナスタシアについて書いた本を神父にあげたくて持ってきていたメグレ氏ですが、それも渡せないままでいたのです。
その理由は、
引用:「響きわたるシベリア杉」ーフェオドリ神父ー
こういった点にあり、過去に修道院の神父と議論したことさえあるのです。
しかし、うじうじと本を渡せない自分と対峙しているわけにもいきません。動揺しながら本を取り出し、フェオドリ神父に手渡しました。
彼は静かにそれを受け取り、片方の手のひらに載せた。もう一方の手でゆっくりそれをなで、両手で何かを感じ取っているようだった。そして「私に読んでほしいかね?」とたずね、返事を待たずに、「よろしい、置いていきなさい」と言った。
なんとか受け入れてくれましたね。
やはり、本物の偉大な父というのは言葉少なですべてを受け入れてくれるのでしょうか。
「アナスタシアは異端者だ」と言い放った神父もいたといいますから、同じ神父という位についている人でも出会う人によって人生は変わりそうですね。
「きみのフェオドリ神父は亡くなったのだよ」
二日後、メグレ氏は再びフェオドリ神父に会いに行きました。
そこで、衝撃の告白をされるのです。
森の中の小さなベンチに座って、さまざまなことについて話をした二人。
神父の話し方は27年前と変わっていないのですが、ただひとつ奇妙なことがあって、それが気になってメグレ氏は落ち着きませんでした。
そのとき突然、神父は深い思索の流れを絶つかのように口を開きます。
これはかなりの打撃ですね・・・。
気が動顚したメグレ氏がやっとの思いでたずねます。
メ 「それでは、あなたはどなたなのですか?」
神 「私はフェオドリ神父」
メ 「教えてください、彼のお墓はどこにありますか?」
神 「古い墓地に」
メ 「そこに行きたい。行き方を教えていただけますか?」
ここまでです。神父がこれに答えることはありませんでした。
何か深い意味がある、言葉の意味とは違う隠された意味があると思ってしまうのは私だけでしょうか。
やっぱりあのフェオドリ神父としか思えない
尻切れとんぼのような終わり方をした会話のあと、
「夕食の時間だ。さあ、行こう。ごちそうするよ」
と言ってうながされたメグレ氏は、そこでさらなる混乱に遭遇するのです。
夕食のポテトを食べたとき、その味で頭の中がぐるぐる回り始めたのです。
飛び抜けて美味しいその味で私は思い出した。それは27年前に修道院の大食堂で食べたポテトとまったく同じ味だった。あれ以来私はこのポテトの味を忘れたことがなかった。
自分のとなりに座っているフェオドリ神父はあのフェオドリ神父とは別人であるという事実。
その話し方もふるまいもあのフェオドリ神父とまったく同じだという事実。
混乱している中で、何年も前のある出来事を思い出します。
写真を撮るためにポーズをとることを好まないのが修道士であるにもかかわらず、昔、フェオドリ神父は自ら一緒に写真を撮ってもらおうと言い、二人の写真を撮ったのです。
もし、今となりにいる神父に写真を撮ることを提案したら?
彼が拒んだらやはりあのときのフェオドリ神父ではないと言えるのでは?
「一緒に写真を撮りましょう」
・・・。
フェオドリ神父はそれを拒まず、一緒に写真を撮ったのでした。
ロシアの長老たちよ
フェオドリ神父と話をしならが、メグレ氏はある結論に達します。
ロシアの修道院には、国内あるいは海外から多くの改宗強要者たちとはまったく比較にならない、深い叡智を備え、簡潔明快に道を示してくれる長老たちがいるのだ。
それなのになぜ
アナスタシアに会いたいと言ってくる人々に会って話をしてほしい、そうすれば彼らがはるばる遠いシベリアのタイガまで旅する必要がなくなる、という頼みを聞いてくれないのか・・・。
フェオドリ神父は、
「なにしろ、私自身まだこれをすべて理解しているわけではない。さしあたり時間のあるときに、きみひとりで訪ねてきなさい」
と、要望を受け入れてくれませんでした。
それなのになぜ黙しているのか?
ロシアの長老たちは、そのような叡智を授かっていながら、黙しているのか?
それはあなたがたご自身の考えによるものですか?
それとも闇の勢力が、あなたに口を開かせないのですか?
礼拝の時は、たいていの場合私たちが簡単に理解できない言葉で説教をします。
それによって多くの人は、直接的な悩みを解消できずに教会をあとにすることも多いでしょう。
そんなときに、自分の理解できる言葉で優しく話してくれる宣教師がいたら、お金を払ってでも聞こうとするようになるかもしれません。
自国の聖地を忘れて、海外の聖地巡りに旅立つ人が多くなるのもそのためなのではないでしょうか。
いつ口を開いてくれるのですか?
フェオドリ神父との再会で、いろんな思いを抱いたメグレ氏でしたが、共に時間を過ごしたあといつも感じていた「格別に満たされた心地よさ」を今回も感じたと言います。
アナスタシアの話した内容を、より理解するために多くの宣教師に会って話してきたメグレ氏。
しかし、フェオドリ神父は彼らよりはるかにシンプルで明確でわかりやすい話し方をしたのだそうです。
そして、こう強く思ったのです。
「私は他の人たちにも、フェオドリ神父に会ってこの心地よさを感じてほしかった。
叡智を懐くロシアの長老たちよ、あなたがたはいつ口を開いてくれるのですか?」
フェオドリ神父・・・この本を読んでこの修道院に駆けつけた人も少なくないのかもしれません。
しかし、すべてを知る神父に会った私たちは、一体何を話すのでしょうか?
口を開かない理由がきっとそこにはあるのではないかと、私は思いました。
まとめ
今回も引用が多くなり、ネタバレみたいな展開になってしまいましたが、実際に本に書かれていることはもっと奥深く、愛情に溢れています。
本当に大事なことは目には見えない、だから人は苦悩するんでしょうか。
目に見えないことに支配され、それに怯え、常に不安に駆られた人生を送るより、
大事なことはちゃんと見えないところにあって、常に私たちが自由に知ることができるはずなんだと考えて、伸び伸びと安心して暮らしている方が、苦悩は少ないかもしれませんね。
本日も最後までお読みいただきありがとうございます。